愚痴は言わない、疲れた

私は、文章で書くことにより、世界を判断する基準がわかる。

最近、自分の目で見てみて、フェイスブックの記事を消している。  人から、面接官の目で見て、フェイスブックの内容を吟味するように、というアドバイスを受けた。そして、私はそのアドバイスに従い、さまざまな記事を消すことを決めた。 フェイスブックは、公共の空間だ。そこには毒を吐くのも、唾を吐くのも、よくない。私の書いた内容は、そういう唾だった。公共のマナーに反する。そして、私の発信が、職場の情報漏洩にもなっていた。そう、アドバイスをくれた方は指摘した。 また、病んでいる記事は、読む側も病む。だから、明るい内容の記事を書いた方がいい。フェイスブックは、明るい記事を書く。そういう場だから。そんな事を言われた。

私がうっかりと、いろいろ書いてしまった。そのよくない記事にアドバイスや、コメントを頂けて、嬉しかった。ごめんなさい。すごく勝手に申し訳なく思う。自分の行動は、自分で決めたことだ。でも、ごめんなさい。覚悟がなくて、ごめんなさい。

私は、文章を書くことに対して、いろいろな気持ちを持っていた。私は書きたいことを好きなように書きたかった。

誰かに同意を受けたかった。また、わかって欲しかった。認めてほしかった。求めすぎてしまった。

職場のことは、自己アピールのつもりでいた。面接用に、どんな仕事をして来て、どういうことを助けてもらっていたかを伝える練習でもあった。何が嬉しかったのか、どうしたら、他のスタッフさんの助けになるかを考えようと、振り替えりもあった。このくらいは、大丈夫だと、思っていた。甘かった。

最低限気を付けていたこともある。誰かのせいにしない、ことだ。誰かが嫌いだと書かないことだ。職場の人に対する愚痴は、あった。けれども、書くことじゃない。

悲しいこと、愚痴は書くことで私が癒されたかった。誰かに聞いて欲しかった。いつも、聞いてくれる人がいる訳じゃない。だから、書くだけなら誰の負担にならないだろうと、思っていた。言い訳がましい。読む方の、気持ちは全然考えようともしていなかった。

他の方の投稿を拝見していて、悲しいことは、具体的に書いていなかった。私は間違えていた。そう、改めて感じる。他の方は、悲しいことの処理は、どうしているのだろう。

愚痴を言わないように頑張ろうと思った。しかし、何をどう頑張るのだろう。私の好きなことは、書くことだ。ストレス発散は、すべてを書くことだ。このように、自分の状況を説明する場は、ここと、今は特定の誰かしか居ない。

家族には、言わない。なぜなら、心配するからだ。ここならば、誰も気にしない。傷つかない。そう思っていた。私の認識は、甘かった。

私は、自分だけではストレスの処理が、できない。だけど、最近は、頑張って「しんどい事」を書かないようにしていた。けれども、限界が来て書いてしまった。

そして、それが私の好きな人をイライラさせた。それは、とても、悲しかった。

ストレスを発散に趣味を見つけてみたら。そんなアドバイスは、他の人から頂く。しかし、それは出来ない。

いつの間にか、私の中で禁止事項がある。お金がない私は、お金のかかることをやってはいけない。そんなことだ。 それは、映画を観ることだ。服を買うことだ。遊びに、出かけることだ。外食をすることだ。

ひとりで、自分の作った禁止事項にがんじがらめになっていた。

だから、少し減らした。そして、別のことを書いた。けれども、それもダメだった。指摘されて、あわてて、消した。こんな考えは、間違っているのだろう。

愚痴は、私の苦しい生活は、誰も読みたくないと思う。だから、内容を減らした。

私は私のためにアドバイスをくれた方の、期待に、応えたかった。

けれども、私は完璧じゃない。全然、完璧じゃない。いつも、家族の期待に応えられない。誰かにイライラされるのは、怖い。誰かに注意されるのは、怖い。これ以上、失望されたくない。これ以上、傷つきたくない。

だから、もう今後は明るい内容しか書かないように頑張ろうと思った。情報漏洩しないように、頑張ろうと思った。

大好きな人に、嫌われたくない。頑張った。もう、疲れてしまった。

最低限、「誰それのせいで困った。」とは書かないようにしていた。それは、無意識の私のルールだった。それは、私なりの小さなプライドだった。それを、書いてしまうと、品位が下がる。無意識にそう思っていた。