チラシの裏のメモ書き

嘘と本当もあるちゃんと言えないブログ

雨の日には日記を

 今日は雨だ。雨の日になると、三和は、自分を責めることや誰かを責めることばかり、思い出してしまう。雨は苦手だ。そういった気持ちを書き出す。1日中、机にはりついてノートに思いを連ねる。一字、一字と。
 雨粒が地面を濡らし、いっぱいに消えて行くように、ノートの白紙が三和の書く文字で消えていく。


…………
 私は、いつも頭がよくなりたかった。頭の良さの基準は、学校のテストの点でだった。そして、いつも、学力の高い人は、常に人に囲まれていたからだ。けれども、それは人柄からなんだと感じた。
 私の見方は、一方的で自分視点で狭くて、批判的だ。これが自分の限界だと思う。だから、そういう自分を越えていきたい。もっと、広い視野を見つけたい。
 中学時代からの友人がわざわざ、京都に来てくれた。うちに、その子を招いた。彼女とは、中学から進学で、途中で学校が別れた。しかし、中学を卒業してからも、10数年ほど、仲良くしてもらっている。
 今の彼女は、常に物事がよくなる方法を知っている。そうなるように、考えている。そして、人に言って良いこと、悪いことを知っている。

食事の時、昔を振り返っていた。中学の時の話になった。
「居心地が、悪かった」
彼女は、そう言った。
 私は内心、困っていた。もしかして、自分もその居心地悪さの原因ではないかと思った。
 「私のせい?」
言葉が先に出ていた。脳内に思い出が溢ふれる。きちんとした、言葉にはならない。私の視点からの思い出だ。
 中学の時の私は、内心友だちに怒りを持っていた。それは、強きもの、声の大きな人が正しい。頭がいいのが正しい。それに従うのが正しい。そう思っていたからだ。
 声の強いものに従わない彼女は、変だと、思っていた。だが、彼女には、彼女の意思があり、考えがあった。
 私の小さな考え方、小さな世界でのルールに、気づいていたのかもしれない。
 変な怒りを持っていた。だが、彼女とは、すごく一緒に居るのが嬉しかった。彼女がすごく幸せそうで、実際に一緒に過ごすだけで、自分も幸せになれたからだ。
 彼女の周りには、いつも友人が居た。小学生時代からの友人や、彼女と同じ部活に所属する人たちだった。 
 私は、彼女のそばに猫みたいに寄っていったり、好きなように離れたりしていた。
 彼女が友人に囲まれているときは、極力近付かないようにしていた。
彼女を地場に形成される集団の中では「私は、ここに居てはいけない。この子たちには、混じらしてもらえない」と思っていたからだ。
 当時の私は、自己評価はコウモリみたいだと思っていた。

「違うよ。」と、彼女は、言った。
「桜井さんは、うちらと居るときはとても、居心地よさげにしていた。テンションから、違っていた。だから、うちらは桜井さんの特別なんやって思ってた」
「そうかな。」少し、ドキドキしながら、私は返事をした。「高校は、どうだったの。」
内心の動揺を隠すように、彼女に言った。
彼女は、「高校の時には過ごしやすかった。見た目が派手で目立つ子たちが「どうする?」と意見を聞いてくれたの。「無理って言うたら、ほなあたらしでやっとくからと言ってくれた。出来るときは、手伝ってくれたらいい。グループは違ったけど、そういうスタンスやった。せやから、やりやすかった」と言う。
 彼女は、中学の時の声の大きなものに、皆が従うに、嫌な思いを持っていたのだと知る。 

京都市内を案内した。彼女は、地元に、帰っていった。帰宅してから、私はちょっと、切なくなった。

 私が、中学時代当時の友だちの気持ちに共感的になれたのは、ごく最近だ。
 わたしは、友だちではない。当時の辛さや、彼女の気持ちがわかるわけでもない。ただ、こうじゃないか……似たような経験じゃないか。そう思う。

 それは初めて勤めた会社でのことだった。わたしは、中学生のような幼い人々に囲まれていた。その時の辛い経験があり、身を持って、彼女の気持ちを学ぶ。声の大きいものとは、ただの幼い人間だ。幼さを引きずったまま、大人になった。そしてただ、年齢だけを積み重ねている。
 当時、就職した会社はいわゆる体育会系と、セクハラが社内で容認されていた。強いもの、声の大きなものに、弱気ものや新人は従うのが、社内のルールだった。
入社当初は、ノリについていけなかった。社内のルールがわからず、ただ、率直に「気持ち悪いから、やめてください」と、伝えていた。
 だが、反応が面白かったのだろう。だんだん、社長や、高圧的な先輩社員や、女性の先輩社員から、いじられるようになった。
 最初こそは、「気持ち悪いです。やめて欲しいです」と、キツい言い方で言い返すという対応をしていた。いじりがひどくなったのは、先輩社員の武勇伝に、傷をつけたからだった。
 ある時、先輩社員が休憩室で話をしていた。
 「俺はこんなにすごい仕事をして来てな、前の会社はな……」と愚痴をこぼす。
 わたしは自分の言ったことを覚えていない。怒りにまかせてだったかもしれない。無意識だったかもしれない。今は、何を言ったか覚えていない。
 記憶にあるのは、女性の先輩社員から、呼び出されて言われた。「ああいう言い方はよくないよ。冷たい言い方をしていたら、場の雰囲気が悪くなるし、いじりがひどくなるよ」と、言われた。社長からは「桜井は、もっと可愛く返事しないとね。キツい言い方して。もっと、可愛く「なんでしょうか。嫌です(ハート)と言ってみたら」と、アドバイスなのか、なんなのか、とりあえず可愛いげをつけろと暗に言われた。
 私は先輩男性の面子を潰したか、なにかをやらかしたらしい。知らぬまに、言い返すことが、許されなくなった。何をしても、いじられる。どんなに空気を読んで、言葉を選んでもクスクスゲラゲラと、女性たちからは笑われた。男性社員は、ニヤニヤしていた。
 職場の年齢は30代そこそこ、もう成人している。けれども、皆が中学生のようなノリだった。
 だんだんと、職場に行くことが辛くなっていた。
 その時、すでに、私は医者にかかっていた。医者にも、家族にも、愚痴をこぼした。
家族特に母からは「クヨクヨするな。気にしないで、強くならなあかん。気にしすぎやん。言い返せば、いいやない」と、言われていた。
医師は、「体育会系だと、よくあるノリですね。ひとまず、仕事に集中して、周りになにも言わせないように」ということをいっていた。
 家族には、自分の弱さのせいにされる。そんな気がしていた。どんなに、「言い返しても聞いてくれない」とうったえたところで、聞き入れてはもらえなかった。
 職場が休みの日には、1日中部屋に篭っていた。何をしていたかは、覚えていない。ただ、仕事にいきたくない気持ちを募らせつつ、仕事にいくのだ
 当時、唯一救いだったのは、職場の中で、私について何も言わない人が居たことだ。その人の存在に、いつも救われていた。その人も、いじりのターゲットだった。たまに、帰りが一緒になることがあった。
 そんな時は、二人きりで最寄りの駅まで歩いた。ある時、どうしても耐えられず、歩きながら、私は泣いた。黙って、泣いていた。その人は「公園に寄ろう」と言った。駅まで歩く途中に、「公園があった」。
 彼は黙って、そばにいた。私はただ、泣いていた。声にならない涙だった。
 職場のことは、ちゃんと話はしなかった。ただ、泣くのをそばで見守ってもらっていた。そんな日が何日も続いた。
 部署が移動になり、彼と帰宅時間が違う日が増えた。私は、一人では泣けなかった。だから、たまに、公園で待っていた。
 公園では、彼の趣味の話を聞いた。彼の大好きな女性の話を聞いた。生き方が素敵な女性だった。話をするのが、楽しくなっていた。
 たまに、休みが合う日、彼と予定をあわせてお茶をした。
 ただ、一緒に居るのが楽しかった。彼に救われていた。
 1年が過ぎた。その人を頼りに職場に行っていた。その人が、職場を辞めると聞いた。
 かかりつけの病院では、相変わらず、仕事を辞めたいと言っていた。家族に病院で話した内容を伝えていた。家庭では「辞めないで」と、母親に言われていた。
 もう無理だった。わたしは、病院の医師の前で「なんで、好きなようにできないの。やめたい」と涙ながらに叫んだ。 医師に怒鳴られた。「いい加減に、嫌なら正直に伝えて辞めなさい」と言われた。びっくりして、医師に「辞めます。」と伝えた。会社には、退職願を出した。引き留められた。私が職場に退職願を出した時、ちょうど、何人かの若手社員が辞めることになっていた。送迎会に誘われた。だが、私はいろいろなことを無視して、その年の3月31日付けで仕事を辞めた。
 仕事をやめてから、母からの、攻撃が始まった。攻撃ではない。けれども、そう見えた。毎日のように仕事を探せという無言の圧力をうけていた。 
 仕事を辞めてから、母は、毎朝、キッチンの机に求人広告を置くようになった。
 朝起きて、朝食後にすぐに外に出た。行き場所もなく、街をさまよった。そして、ハローワークに通った。
 仕事が見つかるまで、求人広告を置かれることが続いた。
 あまりに辛いときは母に「いっぺん、いじられるような環境に置かれてみたら」と皮肉気に言った。
また、「辛いから、求人広告を置かないで。自分がされたら、どう思う。」と言った。
 「別に何にも思ってないよ。ゆっくり、探せばいいやん。三和は、変なひねくれた捉え方をするねんな」と母は言った。
 悪意はないと口では言っていた。だが、私の気持ちはズタズタだった。
 家族を特に母を、恨んでは居ないと言えば嘘だ。
 ハローワークの紹介でなんとか、花屋の仕事にありついた。仕事は見つかったが、家に居るのがものすごく居心地が悪くなっていた。
 母を疎ましく、家族を疎ましく思うようになっていった。
 職場への見方は一方的で自分視点で狭くて、批判的だ。これが今の自分の限界だと思う。
 家族への疎ましさは、次第に大きくなる。同時に、もう二度と前の職場には、もう、戻りたくないと思うのだ。可愛いげがなく、私にもいろいろな問題があっただろう。
 それでも、人をいじって、楽しむような人がいる職場は二度とごめんだ。辛かった。
 けっして、経験から学んだなんて、言わない。私は、人をいじること、ばかにすることはするまい。人を侮ることもするまい。
 こうやって思い出すと苦しい。ずっと苦しい気持ちを忘れていないと、自分が苦しい。忘れて生活している。
 いじりで、逃げれない人がいる。
 私の家族は、私の生活を支えてくれた。そこは、感謝しなければならない。無職の時も、お風呂も家事炊事も、手伝えと言われたことはなかった。
 しかし、心のめんで家族の理解は得られなかった。
 家では、居場所がなかった。そういう時に誰か、一人助けになる人を見つけ、私は勝手に救われていた。
 ただ、そばに居てくれる誰か、そして、職場と、家族以外の人間関係は大事だ。 

………………
 長い時間、書いていたので首が痛い。ノートから、顔をあげる。自分のことを三和は、「私」と表現したり、ノートのなかでは「三和」と表現する。
 そんな気付きがあって、ふと窓の外を見る。曇り空がひろがっている。窓の向こう側の女性が、三和と同じ動作をする。

 「あのとき」と、三和は思う。新しい仕事、今の花屋の仕事についてからだっただろうか。
 彼女は、ボランティアを始めた。母には「ボランティアに行くなら、庭の草むしりを手伝って」と言われたものだ。
 しかし、そんな言葉は無視して、彼女は、あちこちにボランティアに出かけていた。
 神戸さんや梅さんと知り合ったのは、その時だった。告白してくれた彼とも、その時に知り合った。ハグするパパさんとも知り合った。
 三和の世界は、広がっていった。こんなにも、支えてくれる人がいる。
 なにかをすることで、お礼を言われる。たわいのないことが、嬉しかった。
 今はすべてのボランティアは止めてしまった。
 だが、京都や大阪、奈良の人々に救われたように三和は思うのだった。