ビンタという教育。

ずるいのだけど、告白する。

暴力を見たことがある。言葉の暴力だった。ただ自分を守るためになにもしなかった。見ていて、助けはしなかった。居ないところで、その人とずっと仲良くしていた。見ているのが、辛かった。そして、私も暴力を受けたことがある。受けるのは、辛かった。辛いという気持ちすらわからなくなり、当たり前になっていた。生活のためには、その場を逃げれなかった。
そして、他者に言葉の暴力を行ったことがある。あとから思い出すと、自分がしんどくなるような言葉を他者に投げ掛けていた。受けていたひとはどう思っていたのだろう。いまだに、怖くて誰にも言えない。自分が怖いし、相手の言葉が怖い。報復におののくとかもあるし、病気になっていた人だから、傷をふかめてしまったと、びくびくしている。
暴力を擁護するつもりはない。
ここでは、それは問題じゃない。

このことを書くことは意見であり、びくびくしている。暴力を擁護するつもりはない。
でも、どうしたらいいのかが全然考えれない。
その場に居たら、多分、止めさせると私は思う。
多分、自分が指導者なら、他の子に演奏させたい、みんなに平等に、あとは、周りに怒られたくないからかな。保護者の顔色を伺う私が居るな。

暴力のよし悪し、演奏者の独走のよし悪し、止めるか、止めさせないかは出るけど、どうやるのか、具体的な方法が出てこない。


ある投稿に、子どものせいにしないで、という意見があった。そう。そうなんだけど、難しい。
大人の問題だとわかる。わかるけど、教育って前からそういう部分があるんだよねと思った。
和を乱すのは、そうするなって教わってきたし、そうすることで、自分が不利益をこうむってきたからなんだ。 

子どもに対して、和を乱さず、周りに協調するということをあのミュージシャンさんは子どもに投げつけた。多分、子どもに『大人になれ』って投げつけた手段が、ビンタなんだと思う。

大人になれってことは、自分の気持ちよい演奏をするだけじゃなくて、周りも気持ちよくなるように気を使って欲しいって意味である。

演奏者の独走が自分の気持ちよさに酔っていて、周りの子どもの演奏者がドン引きしてしまい、演奏できなかった。演奏で気持ちよくなれなかった。
でも、当事者の独走した子どもにも、演奏者として、演奏の気持ちよさにも浸って欲しい。
その自分の心地よさを感じるのと、周りに配慮して、周りも気持ちよくなってもらう、そういうさじ加減をどうやって教えていく、わかってもらうのかが問題な気がした。
あと、場を選んで気持ちよく演奏してもらうとうのもわかって欲しいのかな。

自分も気持ちよく過ごしたいし、それを周りも認めたい。けれども、一方的に自分の気持ちよさを周りにぶつけ続けたら、周りは違うよってなる。
あと、場かな。場を選ぶ。気持ちよく演奏してて、場を選べなくなって……その時は演奏者の子は、周りが見えないのだよね、多分。
じゃあ周りの子が気持ちよく過ごしたり、うまいことやるには、どうやるのがいいのか。

子どもをとめずに……周りを引き込ませて、気持ちよさを周りにも与えるようにするって、指導者の技量と、奇跡なんだろう。
技量の問題にしちゃうと、ミュージシャンにそれは必要なのかとか、でも、子ども相手に大人になれってのも変だし。

大人になれって意見があり、私は、和を尊ばずに傷ついた経験から、そういう意見に賛同した。


暴力でない手段でひとりで和を乱して、走り出した子どもをとめるには、どうしたらよかったのだろうか。

子どもさんにわかって欲しかったのは、自分の行動を律すること、場を選んで演奏を楽しむことなんだ。
自分勝手と、個性ってどう違うのかも、紙一重な気がした。

ある人からは自分勝手で、ある人からは個性と見える。